ワジェンキ公園のように広くて、どこまでいけるのかと行ってみたら
草が生い茂り、まわれるのかと思ったら行き止まりだったりで
小さな虫がたくさんいて虫除けスプレーがここで活躍しました。
ヒュンヒュン飛び回ってはいましたが幸い何にも刺されなかったので効果があったと思います。
遠慮なく使えるようにハッカ油で薄めた水のスプレーも持っていったので
頭からかけてスッキリ涼しく感じる空間が自分の周りにできていました😁
そんな端の方で見つけたのがこちら。
すぐ裏は川で、アイビーが蜘蛛の巣で覆われ、そして目の前に横たわる像が不気味な
お墓です。
あまりにもリアルで、本当に人が横たわっているのではと思ってしまいます。
夜に見たらびっくりしてしまいそうです。
アルカディアについて調べていたときにこの文があったので「これは!!」と
書いてあったラテン語の意味が分かりました。
「ラテン語の名言である、Et in Arcadia ego とは、
「私(死神)はアルカディアにおいてでさえも、存在している」という意味であり、
生のはかなさと死の不可避性を説いたメメント・モリの一例である。」
*メメント・モリとは、これもラテン語ですが
「自分が(いつか)必ず死ぬことを忘るな」「死を忘ることなかれ」という意味の警句です。
警句ではありますが、「いつか死ぬから、今を思い切り楽しんで生きよう」という意味が主の言葉だそうです。
ポーランドだとよく墓地の敷地内に書いてあったりします😀
写真を撮っていなかったのですが、この裏側にもフランス語で別の言葉が書かれており、
「J’ai fait l Arcadie et j’y repose」とあって、
こちらの意味は
「私はアルカディアを創り、そこに眠る」でした。
ディズニーランドのホーンテッドマンションが好きなせいか
ヨーロッパのお墓を見るのは好きなので色々見てきたと思うのですが
このリアルで、この形で横たわっていて顔が隠された女性の像は記憶になかったので
とても印象的でした。本当に動き出しそうで怖い。
昼間でもリアルすぎて、近くで見るのが怖かったです。
またこの墓標については、詳しくウォヴィチの観光HPから記事を見つけたので
その翻訳文を最後に載せておきます。気になった方は最後までご覧ください😄
そして今回のお目当てはこちらでした。
「きれいな水道橋の跡がある場所があるからいつかいこう」とずっと主人に言われていて
(京都の南禅寺ですごいの見たことあるけどそれよりもすごいの…?)と疑問に思いつつも
とりあえず滅多にどこかへ行くということがないので楽しみにしていたのがこちらでした。
南禅寺のような壮大なものではありませんでしたが、これはこれで天気と緑のおかげかも
しれませんがきれいでした😄
水道橋というか用水路?
1951年に再建とあるので、ここも戦争で被害があったようですね。
それでももう70年も経つわけなので少しずつ風化もしていくわけです。
ここは表から見るより裏からの写真が有名なので私も撮ってみました。
緑の中にあるのをメインにした構図と、
真正面から。
正方形なのはすみません。
写真撮っても大抵見せるとしたらインスタなので容量的にも形的にも
インスタ用で正方形をデフォルトにしていてこれらはスマホで撮ったものです。
ここまでで、この水路がストップしているのでちょうど真反対から見られるのがいいですね😄
人はとても少なかったですが2組すれ違ったときに皆ここで写真を撮っていました。
私達もせっかくなので2ショットを撮ってきましたよ😁
ここから歩いていくと大きな池に。
ワジェンキ公園のような雰囲気。
すぐ目の前には神殿のような建物。
DOVE PACE TROVAI D’OGNI MIA GVRRA と書いてあります。
また気になるどうせラテン語のもの。そうだいつもラテン語なんだこういうのは。
Temple of Diana ということでディアナ神殿です。
Templeって神殿という訳でもいいのですね。知りませんでした。
またディアナをダイアナと読んでしまった自分に英語なのかどっちなのかと
英語の発音ってなんでAがエイなのか、アじゃないのかと(ヨーロッパだったら大抵アなので)
Cはツェじゃなくていい、それはシーでいいし、
Eはエじゃないの?イーなの?Iはイじゃなくてアイってなんでそうなる?とか
Meはなんでメじゃなくてミなんだとか(Meterとか)、
同じアルファベットなのに罠が多いと気付いたこの頃です。
…と思ったけど漢字は同じ漢字でも大抵いくつか読み方があるし
それに加えて意味も変わってくるから、漢字のほうが文字として難しいかもしれませんね😀
さて、例のラテン語の意味は…
とググったところ、ラテン語ではなくイタリア語だった模様。
そしてイタリア文学としてカンツォーネの文が出てきました。
文字が少し変わっているのは、これはポーランドと同じで昔のとはVがUになるとか
古い単語ってことなのかもしれません。
フランチェスコのペトラルカ(ソネット=14行詩)のなかでも
イタリア風のソネットということで
「In morte di Madonna Laura」
マドンナローラの死去というタイトル?
Quanta invidia io ti porto, avara terra,
ch’abbracci quella cui veder m’è tolto,
et mi contendi l’aria del bel volto,
dove pace trovai d’ogni mia guerra!
5Quanta ne porto al ciel, che chiude et serra
et sí cupidamente à in sé raccoltolo
spirto da le belle membra sciolto,
et per altrui sí rado si diserra!
Quanta invidia a quell’anime che ’n sorte
10ànno or sua santa et dolce compagniala
qual io cercai sempre con tal brama!
Quant’a la dispietata et dura Morte,
ch’avendo spento in lei la vita mia,
stassi né suoi begli occhi,et me non chiama!
汝、汝、貪欲なる国、汝を妬むこと甚だしきに至りては。
汝は、私から視力を奪ったものを抱くように。
そして、あなたは私と、美しい顔の空気を争っています。
すべての戦争から平和を見つけたところだ!
5 閉じてしまう、閉じてしまう、天へ持っていくのはどれだけか
そして、貪欲に自分の中に集まってきた。
彼女の美しい肢体から精霊が溶け出した。
そして、他の人のために、めったに武装解除されることはありません。
運命に翻弄される魂がどれほどうらやましいことか。
10 今、彼の神聖で甘い仲間は今
私がいつも切に求めていたのは誰なのか。
無情で過酷な「死」にどれだけ
私の命を消したのは、彼女です。
その美しい眼差しのないところに立って、私を呼ばないでください。
ということでそんな14行詩の一部ということが分かりました。
看板には英語で
「 Here I found peace after every one of my battles」
とあったので、戦争から平和を見つけた、と意味だけは書いてあったのですが
調べていたらソネットからイタリア風とか色々出てきたので
せっかくなのでそのまま全部載せておきます😁
参考HP:skuola.net
ぐるっと反対側から。
私は草むらで若干虫と格闘していましたが、向こう側は歩いたところだったので
ぐるっとこちら側から。
いろんな鳥の鳴き声と風のそよそよだけが聞こえてくるリラックス空間です。
たくさんのチョウチョや、青いイトトンボ、それからこの魚Wzdręgaというのですが
日本語だとラッド類といってコイ科の小さい(といっても50cmにはなるらしい)オレンジのヒレが
特徴的なポーランドだとその辺によくいる魚が見られました。
動物はいるかな〜(とくにリス)とくるみも一応持ってきたのですが
何にも会いませんでした。残念。
主人曰く「ここのリスはみんなワルシャワのワジェンキにヴァカツィエに行ってるんだよ😁」
とのことで、
そういうことにしましょう😁
ぐるっと1周してどれくらいでしょうか、実際ここでは帽子も扇風機も不要でしたが
歩いて疲れたので1時間楽しみ、車へ。
次のラジヴィウ貴族の宮殿へと向かいました。
予想外に長くなってしまったので2つに分けます。
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2022年夏の旅行シリーズ
<夏の景色>ウォヴィチ近くの公園とラジヴィウ宮殿へ
<ニエボルフ宮殿>ラジヴィウ家の宮殿とレストラン
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ここからは上に書いた横たわる女性の像があったお墓の詳細と地図です。
<お墓の話>
約200年の時を経て、「ポプラの島の墓」は、1778年にヘレナ・ラジヴィウ王女が創設したアルカディアのロマンティック・センチメンタルな庭園に帰ってきたのです。1785年頃、公爵夫人のためにシモン・ボグミウ・ツグが、ロマンチックな自然を賛美したエルメノンヴィレムのヨハン・ジャック・ルソーの墓を手本に設計したものである。
墓は灰色のドーブニック産の大理石でできていた。この作品は、台座、聖セシリアの彫刻で埋め尽くされたニッチを持つ本体、アクロテリオンと花瓶の形をしたフィニアルを持つ蓋から構成されている。そして、スキールニエフカ(旧ルピア)川の氾濫原に人工的に作られたポプラ島に立ち、人間の運命のはかなさや死の必然性を常に考えさせるアルカディアンの庭の象徴を理解するための重要なオブジェとなったのだ。
ポプラ島の墓は、公爵夫人の埋葬場所として用意されたという言い伝えがある。結局それは叶わず、最後のヴィリニュス総督は、今は亡きNieborówの木造教会のポーチに埋葬された。
この墓は、スタニスラウス・アウグストゥス王の多大な尽力によって作られたものである。という銘文が添えられていた。エト・イン・アルカディア・エゴ」「ジェイ・アイ・フェット・ラルカディ・ジュ・イ・リポーズ」。墓碑の正面に刻まれた「Et in Arcadia ego」という言葉が、アルカディアの庭の文学プログラム構築の出発点であった。トゥームは、古代のシンボル、人工的な遺跡がたくさんある庭園、魅力的なコーナー、美しく賢明な覚醒者などを参考に、クリエイターが非常にインスピレーションを受けたものです。
墓標の構成要素のほとんどはラジヴィ夫妻のコレクションに含まれていたが、長い年月の間に分散してしまった。保存作業のおかげで、もう存在しないポプラ島の墓が丹念に修復され、アルカディアに再び設置されたのである。
墓の安置は、ニエボルフとアルカディア博物館の70周年記念のジュビリーの一環として、2015年5月22日午後6時からアルカディア-ヘレナ・ラジヴィウの命名日に行われた。
式典には、多くの招待客が参加しました。その中には、地方政府関係者、政治家、ワヴィチのPTTK支店の案内人、文化・科学機関の役員も含まれていました。
墓の除幕式では、ワルシャワ室内歌劇場とソリストのBarbara ZamekとGrzegorz Hardejによるアルカディアン・コンサートが行われました。
<アルカディア・ガーデンの歴史>
1870年代、ポーランドにはイングリッシュと呼ばれる新しい庭園様式が到来した。
これは世紀初頭にイギリスで生まれ、その後徐々にヨーロッパの多くの国々に広まっていったものである。イギリス式は、
バロック式庭園の人工性や規則性に強く反発し、自由で趣のある庭園構成と、古代や中世、農村生活、そしてしばしば海外のエキゾチックな形態を暗示するさまざまな建築形態や構造物からなる感傷的・象徴的な舞台装置を組み合わせたものであった。また、この時代の哲学的、思想的、美学的な変化と並行して、センチメンタルな造形からロマン主義的な庭園への展望へと発展していった。
ポーランドでは1770年代初頭からワルシャワ近郊に最初のイギリス式庭園が出現し、Solec, Na Książęce, Na Góra の Kazimierz Poniatowski、Mokotów の Izabela Lubomirska、Powązki の Izabela Czartoryska、Jabłonna の Michaw Poniatowski、地方ではSiedlceの Aleksandra Ogińskaやウクライナ Humaniの後方にある ZofiówkaのSczęsny Potockiの庭園はデザインの豊かさで注目に値するものだった。
その中でも、1778年にヘレナ・ラジヴィウが創設した庭園は、重要な位置を占めている。
建築と庭園のデザインは、公爵夫人の多大な個人的関与と参加を得て、シモン・ボグミウ・ズグが開発しました。建築のアイデアはヤン・ピョートル・ノルブリンとアレクサンデル・オルウォフスキによってスケッチされ、1797年までツークが、その後ヘンリク・イタールが実現させたものである。公爵夫人は1778年の春に庭の整備を始めましたが、1821年に亡くなるまで20年以上にわたって整備と作曲を続けました。
1781年に堰き止められたアルカディアンの大池のほとりに最初に建てられた建築物は、滝のそばのカスケードとコテージ(1781)、
その少し後に大司祭の幕屋(1783)(例のハイプリーストのアレですね!)、
暁を描いたノーブリンのプラフォンドがあるディアナの神殿(1783-1785)、水路閣(1784)であった。
1785年から1789年にかけて、ジャン・ジャック・ルソーのエルメノヴィルの墓を模して、
ラテン語の「Et in Arcadia ego」というあいまいな格言を持つ象徴的な公爵夫人の墓がポプラ島に作られ、また、
野原の巨石から作られたシビルの洞窟、ひなびたフィレモンとボシダのコテージと石のアーチ、憂いの池、時の門、
犠牲の島の円卓も建てられました。1990年代に入っても、ズーグの指揮の下、アルカディアの拡張は続いていた。
ストーン・アーチに隣接するムルグラビ・ハウスとシビル石窟の上のゴシック・ハウスはこの時に建てられたものである。
世紀末には、神殿のエトルリア内閣の内装に新古典主義の装飾が施され、ミハエル・プロンスキーとアレクサンドル・オルロフスキーの絵画が描かれた。
1800年頃、公爵夫人はロマン主義的な庭の美学に傾倒していく。
このとき、アルカディアの庭園は、それまで小さく閉ざされていた感傷的な公園から、スキエルニエフカ川を越えた周囲の広大な野原へと姿を変え、風景の軸や新しい建物を周囲の広大な自然景観の中に自由に取り込むことになったのです。
公爵夫人の当時の大胆な意図は、ロマンチックな先見の明を持ち、新世代の極めて優秀な建築家ヘンリク・イッターによってアルカディアで実現されたのである。川の向こうのシャンゼリゼに建てられた「幻想の墓」(1800年)、「ローマのサーカス」(1803年)、「円形劇場」(1804年)は、この時期に作られた。少し遅れて、おとぎ話に出てくるような「クリスタルの室内」を持つ民芸的なスイス邸(1810年)が建てられ、公爵夫人はアルカディアの田園地帯の建物の中にそれを配置したのである。
また、ゴシック様式の家屋にある「騎士の家」(1814年)は、ナポレオンの英雄である息子のミハエル・ゲデオンに捧げたもので、
独立を失った直後の啓蒙階級に共通する愛国的な高揚を表現している。
神話や文学、さらにはメーソンの儀式に基づいた庭園の思想的・哲学的プログラムは、
当初から、建築の構成、小さな庭の形、建物やプレート、石碑に書かれた文章、さらには緑や花の植栽の形にさえ、意味が暗号化されている象徴主義によって支配されていたのである。そのため、大修道士の幕屋、ディアナ(愛と知恵)の神殿、シビルの洞窟、ポプラ島の墓、ゴシックハウス、幻影の墓など、個々の建物や庭の建造物の名前が付けられている。
アルカディアでは、ヘレナ・ラジヴィウが古美術や古彫刻、古美術品の複製、中世やルネサンス期の「古美術品」を豊富に集め、そこからディアナ神殿に一種の博物館を作り上げました。ニオベの頭部、ローマ人の胸像、グレコローマンの石碑、石棺、骨壷、庭園装飾品、宝石細工の建築要素、「眠れるアリアドネ」の彫刻、ローマ人の若者の胸像「メレアグロ」、スタニスラウス・アウグストの三脚、さらにグリエルモ・デラ・ポルタによるマニエリスムのマシュカロン、ウルツェドフのミハロヴィッチによるハーミーなどが展示され、古代ローマの歴史を紹介している。
また、ピエトロ・スタッジの「聖チェチーリア」やイワン・マルトスの「死の天才」など、公爵夫人から依頼された美術品も同様の性格を帯びています。
このコレクションの特徴は、ポドリアから来た王女が連れてきた12世紀から13世紀にかけての文化財の彫刻の「赤ん坊」である。
元記事;lowiczturystyczny.eu より翻訳
www.DeepL.com/Translatorで翻訳しました。
地図
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<開園時間>
4月- 9月 毎日10.00 – 18.00
★月曜日は入場無料
10月- 3月毎日10.00 – 16.00
<料金>
アルカディア公園
大人16 zł – normalny
7〜26歳までの学生と子供 1 zł
犬 5zł(料金にゴミ袋が含まれます)
アルカディア公園とニエボルフ宮殿の庭園セット
大人28 zł
7〜26歳までの学生と子供 2 zł
犬 5zł(料金にゴミ袋が含まれます)
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最後まで読んでくださりありがとうございました!
調べながら書いていたら長くなってしまいましたが
+αの知識が一緒につけられたら、きっと他の場所で似たようなものを見たときに
きっとこれにもなにか意味がある、とか
楽しみが増えると思うので、共感していただけたら幸甚です。
ラジヴィウ貴族の宮殿も書き始めたら長くなってしまうかも?😄
頑張ってまた書くので、また次の日記でお会いしましょう。
ではまた〜😊
kaori