<2015/1/2 N様とのルブリン・マイダネク旅行>
時は遡る事昨年12月中旬。ブログを呼んで下さったN様よりメールをいただき、
1/1~1/7のおよそ丸5日間のポーランド一人旅の一部をお手伝いさせていただくことが出来ました。
N様の今回のポーランド旅行の目的は「マイダネク収容所に行く事」!
初めての渡波、そしてマイダネクのあるルブリンへの移動ということで、少しでも役に立てればと思い、
私も行ったことがなかったルブリンへご一緒させていただくことに!
今回の記事はマイダネクについても詳しく書きながらレポートします。
1/2(金)ポーランドに三が日はないので平日です。
5:40ホテル集合
6:20発(少し遅れていました)中距離列車TLKに乗ってワルシャワ中央駅からルブリンへ!
早朝はまだ真っ暗で電車の中もシーンとしていました。7時を過ぎたあたりから徐々に明るくなってきて、
ルブリンに近づくほど雪がちらほら。
今回のルブリン行きの車両はTLKというもので、少し古いタイプ。
部屋タイプのものしかない電車でした。2等車は1部屋8人乗り。1等だと6人になります。
車内は暖房がきいていてとても暖かかったです。
トイレもありますが、今回のは水が流れなかった・・・
ルブリン着!ホームにツリーが飾られていました。
(ポーランドは通常節分まで飾ってあります)
「わぁ~ルブリン来た~!ついに来てしまった~!!」
N様と一緒に私も喜んでしまいました^^
ルブリン中央駅からバスにのってマイダネクへ向かいます。
駅のトイレで用を足してから(2.50złかかります)、バス停へ。
<トイレは行けるうちに行っておくのがベストです!! >
マイダネクへの行き方は別の記事にまとめましたのでこちらの記事からどうぞ♪
ちなみに下にある紙の時刻表と比べると時間が違ったので特別ダイヤで動いているようでした。
一面の雪景色。そしてマイダネクの石碑が車窓からも見えます。
早速マイダネクへ。マイダネクは入場料無料です。
入り口入ってすぐサービスセンターがあります。
中に入って、どうまわればいいのか教えてもらい、早速スタート!
天気は曇り。そして強風。
足元も雪ではなくほとんど氷なので用心しながら歩きます。
ここからはマイダネクの歴史(公式HPの説明を頑張って翻訳しました)
と一緒に写真をご覧ください。
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昨年2014年はワルシャワ蜂起から70周年でした。
マイダネクに人が送られ始めたのも1941年夏から。
東のドイツ帝国を建設する計画を実現するための自由な労働力の供給源になる予定だったマイダネク強制収容所。
英語ではCampとありますがここでは「収容所」という意味です。
マイダネクを訪れたヨハネパウロ2世(ヤンパヴェウ2世)
収容所の面積は、初期の計画から収容される人数の拡大により数回変更されていきました。
マイダネクを作るためのいわゆる「一般的な計画」では「1942年3月23日15万受刑者と戦争捕虜を
保持するための収容所」となることを意図していました。
これによりマイダネクは占有ヨーロッパで最大の収容所になるはずでしたが、
東部戦線での経済的困難や失敗により、これらの計画は上手くいきませんでした。
広い敷地と監視塔
1,200人の司令官を含むSS(収容所を統括していたナチスの親衛隊)に管理されていたマイダネク。
1941年秋に建てられたこの場所は、最初は
「Kriegsgefangenenlager der Waffen SS Lublin-戦争捕虜のためのルブリン収容所」と呼ばれていたものの、
1943年2月には「Konzentrationslager Lublin-ルブリン強制収容所」と改名されました。
強制収容所は「ユダヤ人問題の最終解決」の実現を目的とし、
またポーランドの農村民への刑罰と輸送収容所としても使用されました。
凛とした雰囲気の冬のポーランドの朝
ルブリン郊外、ザモシチ(ポーランドの都市)やリヴィウ(今はウクライナの都市)への道沿い270ヘクタールの敷地に、
収容所は建てられました。
敷地は3つに分類され、SS(ナチスの親衛隊) の為の場所、管理する場所、
そして受刑者のための施設としてフィールドと呼ばれた5つの木製の兵舎で構成されていた囚人エリアです。
それらの建物はとても簡易的な建設で、基本的な衛生の欠如と、
兵舎が超満員だったことから収容された人々の死亡率があがっていき、
さらには水、食料、衣服、医薬品の不足によって状況は悪化しました。
生活環境の改善は本当の最後の最後に改善されただけでした。
1942年10月からは、女性のための収容所が設立されました。
子供達の為の収容所を作る計画は実現されなかったものの、
そこにはザモイシュチズナ(ザモシチの近くの都市)からのユダヤ人、
ベラルーシ人、ポーランド人の子供たちも収容所の囚人として収容されていました。
原因としてはここがソ連の退役軍人用の病院ということにもなっていたからだそうです。
マイダネクは他にサブ収容所としてBudzyń、Radom、Bliżynとワルシャワにも強制収容所を持っていました。
囚人は、約30カ国から集められていました。
支配されていたポーランドの市民(主にポーランド人とユダヤ人)
そしてソ連、チェコ共和国からのユダヤ人も収容されていました。
ポーランド人、ユダヤ人、ロシア人、ベラルーシ人、そしてウクライナ人がほとんどで、
他の国籍であるフランス人やドイツ人などはわずかな割合でした。
収容所での滞在当初から、囚人は必然的に飢え、恐怖、骨の折れる仕事や病気を伴っていました。
本当に、想像できる限り収容された人々は厳しく処罰され、迫害されました。
囚人の生活は絶えず脅かされました。
そして彼らは惨めな生活条件の余波で死亡したり、処刑されたり、またはガス室で殺害されました。
–死刑執行–https://www.majdanek.eu/articles.php?aid=47(←写真HPへ)
1942年マイダネクでの死刑実行はマイダネクから少し離れた先にある
クレンピエツキの森(las krępiecki)の中で行われました。
1943年11月3日、ルブリン城に収容されていた囚人も含めて
マイダネクで約18,000人ものユダヤ人が殺害されました。
–ガス室–https://www.majdanek.eu/articles.php?aid=28(←写真HPへ)
ガス室は、1942年の秋から1943年9月初めまで、
チクロンBと一酸化炭素を使用して、主にユダヤ人、囚人を殺害するために使用されました。
マイダネクに入ったと推定15万囚人の中で6万のユダヤ人を含む
8万人が殺されたと最近の研究で言われています。
犯罪の痕跡を除去するために、劣悪な環境のせいで亡くなった遺体とガス室で殺された遺体は、
薪や火葬場で焼かれました。
–火葬場–https://www.majdanek.eu/articles.php?aid=48(←写真HPへ)
1942年後半に2つのポータブル石油燃焼炉が備えられた古い火葬場が設立されました。
1943年の秋に設立された第二火葬場では、5炉ありました。
ルブリン強制収容所の悲劇的な歴史は、ソ連赤軍(内務人民委員部(NKVD)=ソ連の警察)が
都市に入ってきた1944年7月23日に終了しました。
まもなく、ソ連NKVD陣営はマイダネクを理由に新しいチームを作りました。
そしてドイツ人の兵士は、かつての収容所の兵舎へしばらくの間投獄されました。
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マイダネク記念碑
(まぐさ石(lintelリンテル)=古代の建築で2つの支柱の上に水平に渡されたブロック)
この前にも入り口の鉄の門があるのですが、この複雑な形はどちらも
「破壊的な侵略」の中で、
「突然の解放」の可能性を信じた人々を
「窒息死させ、破砕された人体のブロック」
(=ぎゅっと固めた?)
を抽象的に象徴したものだそうです。
極寒の中での記念碑はとても迫力がありました。
N様は、幼い頃にこのマイダネクについての本を読んでから
ずっと来て見たかったということもあり、歩きながら詳しく教えて下さいました。
記念碑を後にして次は兵舎へ向かいます。
正直に言うと、本当に寒かったです。
風が強かったのです。しかしそのおかげで、
雪の中の荘厳な景色が見られ、また当時の方々の冬の思いも少し分かった気がしました。
広い広い敷地。
ちなみに敷地のすぐ目の前は、大きな道路、
そして隣には住宅地と、普通にあります。
なんだかびっくりです。
マイダネク敷地内途中までは車で来る事も出来ます。
広い敷地なので車で来れるのは便利ですね。
やっと兵舎のあるところまで歩いてきました。
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